何を持っての障害なのか、何を持っての特性なのか。
しばしば討議されます。
僕の主観ですが、人はそれぞれなんらかの特性を必ず持っています。
以前、ビジョントレーニングの先生も原始反射が全く残っていない人は
見たことがないとおっしゃってました。
では、どこまでが特性で、どこからが障害なのかとなりますよね。
これも僕の主観ですが、その特性によって本人や家族に困りごとがでてくる
時は障害で、それ以外は特性だと思っています。
〇〇障害と診断されたから困りごとが増えるわけじゃないです。
むしろ診断されたら、いろいろなサービスを受けれたり、国からの補助も
あったりします。デイサービスもそうです。
逆に困りごとがあるのに診断を受けていない方が大変です。
年齢を重ねれば重ねるほど困り感やこじれが大きくなっていて、二次障害、三次障害が
でてくる可能性があります。
だから早期療育が叫ばれてるんです。
例えば早期療育と言われるから、特性があるかないか微妙だが診断を受けました。
結果、障害というほどの特性ではなかった。ここに問題はないわけで、本当は特性が
強いのに診断を受けなかった方が大人になってから苦労をします。
僕は療育は丁寧に育てることだと思っています。それって本当は障害があろうが
なかろうが大切なことなんです。
子どもといる時に、一日15分でよいのでスマホを見る時間をやめて、真剣に子どもと
向き合うと劇的に子どもとの関係性が変わります。
休みの日の公園で子どもを遊ばせながらスマホばかり見ているお父さんを見ると
父親業が作業になっているなと感じます。
父親をすることと、子育てをすることは似て非なるものだと僕は思っています。
きちんと子どもを見て、定期的に声をかける。
もっと言えば、子どもと一緒になって楽しく遊ぶ。
それで子どもとの関係性も、子どもの成長も劇的に変わります。
障害は愛と工夫で個性に変わるとはこういうことの積み重ねなのかもしれません。
しかし障害のあるなしは関係ありません。
人はそれぞれに特性があるのですから。
本人も周りも困っていなければ、あいつは個性が強いなぁでおわります。
丁寧に愛情をかけると子どもはまっすぐ素直に成長します。
まっすぐ育たないとどんなに良い教育や療育もあまり入らなくなってしまいます。
その上で本人が持っている特性とどう共存していくか工夫する。
それで、障害と特性の境界線が大きく変わると思います。
『アメリカインディアンの教え』(加藤諦三著)の中に次のような詩があります。ちょっと長いのですが、引用します。
返信削除子どもの話に耳を傾けよう。
ウェストリー
きょう、。少し
あなたの子どもが言おうとしていることに耳を傾けよう。
きょう、聞いてあげよう、あなたがどんなに忙しくても。
さもないと、いつか子どもはあなたの話を聞こうとしなくなる。
子どもの悩みや要求を聞いてあげよう。
どんなに些細な勝利の話も、どんなにささやかな行いもほめてあげよう。
おしゃべりを我慢して聞き、いっしょに大笑いしてあげよう。
子どもに何があったのか、何を求めているかを見つけてあげよう。
そして言ってあげよう、愛していると。毎晩毎晩。
叱ったあとは加鳴らす抱きしめてやり、
「大丈夫だ」と言ってやろう。
子どもの悪い点ばかりをあげつらっていると、そうなってほしくないような人間になってしまう。
だが、同じ家族の一員なのが誇らしいと言ってやれば、
子どもは自分が成功者だと思って育つ。
きょう、少し
あなたの子どもが言おうとしていることに耳を傾けよう。
きょう、聞いてあげよう、あなたがどんなに忙しくても。
そうすれば、子どももあなたの話を聞きに戻ってくるだろう。
人は関心を持ってくれる人を信頼するものです。どの子にも必要なこと。「愛すること」と「待つこと」。原和子先生の名言です。
雨田 陽三
雨田さん、良い詩ですね。
削除ふつうのことですが、忙しい毎日でつい忘れてしまいがちなことです。
「待つこと」もそうですね。
忘れないようにします。